月下の孤獣 5
      



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何の先入観もなく見たなら、
ちょっとしたバカンスか目的地までの途上という感もある航海中の一風景。
いかにも初夏という陽射しの下、潮目を切って進むは一隻の貨物船で。
進行方向から吹きつける潮風に やや短めにカットされた銀の混じった白髪をなびかせ、
どちらかといや痩躯だが、若々しくも伸びやかな肢体を
あっさりとした白シャツと七分丈くらいだろうか黒のクロップドパンツに包んだ青年が、
眺めていた海原に背を向け、甲板の側へと向き直りつつ、
くっきりとした一言を投げかける。

 「出て来たらどう? βさん。」

これでもポートマフィア首領直属の特殊工作員。
戦闘に特化した異能を使いこなして単身で破壊工作やら暗殺やらを任じられるほかに、
情報収集のため一般人に成りすまして一般人の日常の中へと紛れ込んだりもするが、
凡庸な存在だから自然体でいるだけで溶け込めてこなせる…とかいうことでは決してなく。
色々と発達している電網社会へのダイヴやハッキングにも長けているし、
はたまた古顔の方々とのよしみも 人懐っこさから綿密に紡いでおり、
今時の情報戦では誰にも引けを取らないスキル持ち。
そんな彼が状況に流されるように
昨夜から…正確には今朝の未明から後追いを始めた今回のあれこれだったが、
今の今、ほぼ全容を掴んでいるようで。

 「ボクの側からも貴方のことはようよう存じておりますよ? βさん。」

常の真っ黒ないでたちとはすっかりと印象が違う、白いシャツに七分丈のズボンという軽装。
色白なことと髪の色も相俟って、日差しの中に溶け込みそうな見栄えであり。
なればこそ、日頃以上に朗らかで清楚な十代の青年に見える彼のはずが、

 「……。」

いつもの陽だまりのような穏やかで人畜無害なお顔はどこへやら。
野獣と猛禽の険しくも恐ろしい要素をぎゅっと濃縮したような、
触れたらさっくり切れてしまいそうな鋭さと冷ややかさに満ちた表情を浮かべておいで。
鼻梁の脇やおとがいの真下に落ちた陰が、常以上に濃く見えて、
紫水晶のような瞳の淡色も、伏し目がちなせいか心なし深い色合いになっており。
夏向きの衣紋がバサバサと風に遊ばれる以外は微動だにせず、
しなう背条を弓なりにやや逸らせ、しっかと立っておれば、

 「さすがは虎の異能者だ。鼻が利くんだねぇ。」

上甲板を見上げる位置、
さっきまで鏡花と芥川が異能同士で鍔迫り合いを繰り広げ、
すったもんだしていた下甲板へ、物陰から出てきた存在がある。
ダークスーツを着こなしている30代くらいだろう男性で、
そういう格好には慣れているようだが、
切れ長な目許に唇も肉薄で、その口許の片側だけを引き上げて笑ったどこか酷薄そうな面差しが
そのまま計算高そうな人柄を映しているような印象をばらまく。

 「初めましてだね。通り名は βという。」

こんな状況で、もしかせずとも身を隠していたものを言い当てられたというに、
姿を現しても悪びれたところは見せない辺り、
年少な敦を舐めてかかっているものか、それとも何かしら切り札でもあるものか。

 「確か Aさんの一派の人だよね?」

敦にとっても初見の相手ではあったものの、そこは首領の子飼いの特殊工作員。
顔や素性はしっかりと把握しており、
元賭博師でカジノ荒らしで名を馳せていたAという男の係累だ。
Aとやらもあまりいい風評は聞かない男で、
上納金を積むことでポートマフィアに身を置き、果ては五大幹部の席までも手に入れたという変わり種。
まま、現状空席があったことでもあり、鴎外に何かしらの思惑あっての処断だろうからと
そこへ異を唱える者はないが、
どのような経緯でそこにいる男かがはっきりしているだけに周囲からの敬意もほぼなく。
そんな彼の一派には、逆にいや どんな素性なのかはっきりしない手駒も多い。
この彼にしても、
パリッとした格好でいることのみならず、手のものという形の配下も何人か揃えている級の構成員。
彼もまた特殊な異能を持っており、
それを駆使して裏社会では暗躍していた身だったらしい…ということくらいしか知られてはいないが、

 「声の異能者だってねぇ。
  鏡花ちゃんの携帯への指示は親方の声色でこなしてたんだろう?」

敦としてはそこまで把握出来ていたようで。
丁度 陽を背負っている位置関係から、自分の影が落ちている下甲板を見下ろして、
その傍らに立つ相手を見やりつつ淡々とした声で続ける。

「鏡花ちゃんほどの勘のいい子でさえ誤魔化せるなんて、
 声紋レベルで同じに出来るって異能なんだろうね。」

敦は太宰略取の後の騒ぎへも何とか辿り着いてはおり、
そちらでの形式上の主犯、爆弾を提供した梶井との立ち合いをこなしている。

「梶井さんがね、言ってたよ。
 インカムや通信機器を用意した手の者に見覚えがなかったんで信用ならなかったって。」

鏡花を実地で動かせるのは、今の時点では紅葉がいない以上 鴎外のほかには居ないはず。
それもあったので、芥川捕獲という任務自体は疑わなんだけれど、
作戦伝達や指示は話半分に聞いたらしく。

 「ただ。
  携帯端末での鏡花ちゃんへの指示を 傍で聞いてた分には
  親方の声に間違いなかったよって。」

最初の取っ掛かりは間違いなく鴎外が思いついてやらかしたのだろう。
あの黒獣の異能者を捕まえたいのだが、なんと同じ探偵社にあの太宰がいたがため、
絶妙な応用が利くはずの敦が二の足を踏んでしまい、捕獲作戦は失敗。
もしかして内通しているとも思えぬが、いまだになにがしかの信頼があっての運びというなら、
手の内に引き込んで盾にすれば、
ややこしい抵抗をして見せた虎の少年の駄々も封じられそうとでも思ったか。

 “でも、親方としては
  鏡花ちゃんのレベルで太宰さんを引っ張って来れるとは思ってなかったろうから。”

連絡員を兼ねた黒服の構成員は付けただろうが、
真の目的は…言を左右にしてふざけた態度を取ると 例えば彼女が怖い想いをするかもという、
せいぜい敦へのささやかな圧力のつもりの悪戯レベルだったのだろうに。
そのはずが、本拠に本当に連れ込まれた流れを却って怪しんでそこで手を引いたという順番だったようで。

 『ちょっとした悪戯のつもりだったのだよ。』

まあ、久し振りに姿を見て安心したけれど、
こうまであっさりやって来た辺り、太宰くんの方に心胆ありと見做す方が妥当だろ?と。
妙に悪びれない態度で仰ったのへ、バカラの水差しを握り潰しただけで許して差し上げて。

 「地下鉄での爆弾騒ぎの方は、すっかりと主役が交代していたのでしょう?」

大方、あまりよくは知らない敦と鏡花が同じような立場だと、
鴎外の子飼いの工作員だとでも思ったそのまま、それをそのまま引き継いで、

「あの芥川くんを懸賞金を掛けた“組合”へ差し出して あわよくば70億もいただきの、
 声だけで意のままに出来る暗殺型の異能者を手に入れの出来ると思ったのかな?」

鏡花という名さえ こんな下衆へ使ってやるのが忌々しいか、そんな言いようをした敦だったのだが、

「そんな思惑によく気付いたね。
 君は君であの子を探すのでいっぱいいっぱいかと思っていたよ。」

鏡花を体よく操れたことで思い上がっているものか、
敦もまた、見た目の年齢相応な、
いちいち指示を貰って動いている小者だとでも思っているらしく。

「地下鉄を1両まんま持ち去った辺り、
 動向が怪しいのみならず ある程度の手駒が居ないとできない大仕掛けですからね。」

当然、鏡花ちゃんが協力者を募ったとも思えない。
紅葉さんやボクという支援者はいるが、
尾崎幹部は遠征に出ていて不在だし、ボクは派閥によってはあまりよく思われちゃあいない。
中原幹部や広津さんといった、分け隔てなく誰へも目を掛けてくださる人は別として、
異能の詳細さえ隠されている得体の知れない存在でしょうからね。
そんなボクも任務を言いつかってた中、親方に単独で呼び出されたあの子だったとあって、
味方は居ないも同然で振り回すにはうってつけの好機だったでしょうね、と。
ただただ右往左往していたわけじゃあないんですよという辺りを告げてやり、

 「貴方の方こそ、あまり自分の異能のこと広めてないみたいですよね。」

Aさん自身もあんまり荒事には接しない人ですが、それでも対手をねじ伏せる異能を持ってはいる。
そんな人の手駒にしては、乱闘活劇の場面に駆り出されてはないなぁと思ってたら、

 「耳が良くて用心深い鏡花ちゃんがすっかり疑わなかったというのも凄いし、
  機械に精通している梶井さんが警戒していただろう 通信機を通した声も、
  認証機能で弾かれなんだそうじゃないですか。」

この男の異能、誰の声でも複写できるというそれであるらしく、

 「何も電信系での成りすまし、声真似だけじゃあない。
  声で出来ることって、イマドキならではで色々とあるんですよね。」

個人認証というのが今や先進の電脳界でも一番大変な案件で。

 それが誰の発言か、誰の行為であるかを見分けること。

合言葉だの IDの設定だのなんてどうとでも解読されてしまう昨今、
絶対の鍵をどうするかという点へは、そりゃあもうもう様々な方法が講じられており。
いっそのこと印鑑制度に戻った方が早くないかという声さえ出ているほど。

「マザーボードのデータベースへコンタクトするのは、静脈認証クラスの最高度な証明が必要だけれど、
 その手前で良ければ、様々な倉庫金庫の鍵から 極秘情報ファイルの閲覧まで
 首領様の声紋で操作出来ないものはないという手配になっている。」

録音されたものでは受け付けない高度なものでも、この男の異能に掛かれば問題なかったらしいが、

 『肝心な合言葉が判らないっていう、本末転倒なことも結構しでかしてたらしいけどな。』

赤毛の幹部様が、それはすさまじい早さと的確さで
組織内での首領名義の “鍵”がいつどう使われたかを浚ってくれたようで。

「銀の宣託がなくても何でもできると高をくくりすぎたようだね。」

時間的な存在証明が成立しない、
早い話、その時間帯には別のところにおいでだったはずだけどという矛盾が生じる操作が幾つか見つかり、
そういう矛盾を擦り合わせられないってのは初歩的な失態じゃあないのかと、
総務の事務方へ注意勧告が飛んだらしいがそれはさておき。
貴方の企み、この一件への勝手な動きは全て するッとまるっとお見通しなんですよと、
逃げようのない断言として突き付けた白虎の青年であり。
だがだが、そこは相手も裏社会で生きてきた存在、
そのくらいの正論では動じないらしく、

「そっちこそ、何か思い違いをしてないかい?
 依頼してきた組合の長は、獣の異能をその身へ下ろす異能者をご所望なんだ。
 君でも構わないとは思わないか?」

応用が利くだろうと言いたいか、
それとも目の前に立つ少年の意表をついたぞと、
さぞや愕然とするだろう効果を期待してか、にやにや薄ら笑いを浮かべる β氏で。

  だが、

「そうですね。本当のご所望の異能者はボクなのかもしれない。
 あの黒獣の人には悪いことをしている感がありました。」

「な…。」

慌てふためくどころか、そんなのとうに承知の話だと、
微塵も揺るがぬ様子での反駁が返ってくる。
上甲板から見下ろしていた位置から、タラップ状の階段まで足を運び、
カンカンと硬い音立ててそれは落ち着いた様子で同じ下甲板までを降りて来る敦で。

「動悸が早まりましたね。
 恐れて萎縮してくださると、多少なりとも言葉添えして差し上げられますよ。」

波の音や潮風の音など、様々な環境音がひしめく中でも、β氏がギクリと委縮したのは拾えたらしい。
まるきり動じもしないままの青年だというのは明らかで、
問答は此処まで、とっとと捕縛しちゃいますとの動きに出たらしき彼なのへ圧倒されたか、
ダークスーツの痩男はチッと舌打ちをすると、

 「耳が良いのがどうかしたか。それが弱点にだってなると判らんのだな。」

まだ何かしら、切り札があるとでも言いたいか。
妙に大きく構えた彼なことへ、ふっと表情に懸念の色を浮かべた白虎の青年へ、
すうと息を吸い込み、そのまま大きく口を開けたβ氏は、だが、
朗々と何か歌い出すかのような構えこそとったが、声は発さず。
???と小首を傾げた敦が ハッとしたそのまま
急な頭痛に襲われでもしたか、がくりと膝をついて頽れ落ちる。

 「あ…、が…っ。」

此処に音波の測定器があったなら、
人の耳では捉えられない周波数の音が満ちていることが計れたことだろう。
ちょっと不快になるようなモスキート音どころじゃあない、
途轍もなく苦しくなるような音であるらしく。

 “真っ当な聴力の人間には何てことのない音だがな。”

耳というより、頭を抑えるようにしてうずくまった敦を見やり、
そのような憎まれを言い放てないのだけが悔しいか、
それでもにやにやと悪鬼のような顔をして、目の前で苦しむ存在を楽しそうに見下ろす彼であり。
声は出し続けられるのか、つかつかと歩み寄ると脚を上げて一気に踏みしめた先、
だんッと甲板へ叩きつけられたのは青年の薄い肩だ。
さすがに息が続かぬか、一瞬息を継いだものの、すぐさま同じ声を放ち続け、
そのまま何度も何度も青年の肩や背を踏みつけにし踏みにじり続ける。

 “選ばれたものだと言わんばかりに、見下しやがってっ。”

青二才のくせにと、日頃から憤懣を溜めていたのだろう、
腐れた思いを込めての攻撃をここぞと続ける彼で。
骨が砕けたか、いやな方向へ肩が曲がってしまったのへ、狂喜するように双眸を見開いて、
ますますと蹴り続けんとしたその足を、

  ____ がしりと

下方から掴んだ手があった。






to be continued.(20.07.28.〜)


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 *クロックスパンツってサンダルのクロックス社のズボンのことなんでしょうか。
  もしかしてクロップドパンツと間違えたかなと反省。
  それはともかく。
  こういう黒幕がいたらしいです。さあ反撃だ!(おいおい)